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【熱狂諸島】関根章裕氏|「KINTAN」「しゃぶ里」をインドネシア全国で展開

※2017年に週刊Lifenesiaに掲載された記事です。

インドネシアで事業に熱狂する人たちの半生を紹介

プロフィール
関根 章裕 氏
PT. INOVASI KULINER INDONESIA
DIRECTOR
多様な飲食業種・業態の現場を渡り歩きオペレーションを学ぶと同時に、飲食に特化したコンサル会社で経営ノウハウを習得。飲食店としては最悪の立地ながら、自らの店を繁盛店へと導く。その後バンコクでcoco壱番屋のFC展開、マネージメントを行い「海外飲食店運営ノウハウ」を修得し、2013年にジャカルタへ。日本焼肉専門店「KINTAN」「KINTAN BUFFET」、しゃぶしゃぶ食べ放題「しゃぶ里」をインドネシア全国で展開中。

飲食を一生の仕事に。夢を描き開業への道のり。失敗、赤字の連続から繁盛店へ

現在「KINTAN」や「しゃぶ里」などの飲食店を経営するPT.INOVASI KULINER INDONESIAでダイレクターを務め、インドネシア国内で直営9店、フランチャイズ18店の舵取りをしている。

私が、飲食を一生の仕事としようと決意したのは22歳の時だった。

きっかけは当時アルバイトしていたお好み焼き店。サービスを提供し、その場でお客様の笑顔を見ることができ「ありがとう」という言葉といただきその上お金まで頂ける。こんな素敵な職業は滅多にないと感じ、直感的に「一生かけて携わりたい」と思うと同時に「10年後、32歳になるまでに自分の店を持つ」という夢を描いた。

それからは、和、洋、中、高級、低価格と多業態を学ぼうと、さまざまな会社・店舗で経年を積んだ。当時人気の、ダイナック、クリエイトレストラン、オザミワールド、高田屋などのレストランから、甘太郎・ワタミなどの居酒屋チェーン、個人経営の定食屋、バーやリゾートホテルなど、各店舗・業態で得るべき目標を持ち、店舗を渡り歩いた。平行してソムリエ・利き酒師・調理師・シガーアドバイザーの資格も取得した。

沖縄でバーテンダーとして働いていたときの筆者

チェーン店では「飲食店オペレーションの仕組み」と「業種・業態ごとの効率性」を学ぼうと決めていた。すると、オペレーションシステムが優れていると感じた店舗には「ベンチャーリンク」という企業が関わっているという共通点が見えてきた。「この会社に入りたい!」と思い求人を探したが募集をしていなかった。

そんな折、ベンチャーリンクの子会社で広告事業のデザイナー募集を発見。デザインの経験はなかったが、とにかく入りたい。応募をして面接になんとかこぎつけた。面接の際に他の応募者は自分の作品をアピールしている、だが自分には作品がない。どうしたら入れるか事前に考えた結果、デザイン書籍を机の上に積み上げ「1ヶ月でここに書いてある内容全部できるようになるので入れてください!」とアピール。運よく営業のトップに気に入られ入社がきまった。昔から「どうしたらできるか」を考えるのが好きだったことが幸いした。

そこでは、飲食店に対し営業マンとして「売り上げ増加」の提案をするのが仕事。その時「オペレーション」の視点しか持っておらず、失敗の毎日。それでもトップ営業マンに毎日同行し自分とトップ営業マンの違いを分析し、質問、学び成長していった。「思いは手法の上流にあり」「ハードルは解除の対象」などの言葉と共に問題解決の手法と「経営的な視点」を学んだのはこの会社だ。

その後独立まで残り2年で、「新業態を開発する力」を得るべく、飲食に特化したコンサル会社「コロンブスのたまご」に入社。地方の名店、名産品を見つけ業態開発しパッケージ化をしを販売していた。「アイディアの種を形にする」ためのノウハウを学んだ。

そして2008年2月、10年かけて得た飲食店経営のノウハウを持って、東京高田馬場に沖縄料理店をオープンした。沖縄料理にした理由は、居酒屋・レストランでは他店との差別化が難しいこと、専門店で根強い人気があり沖縄に住んでいた経験もあり選んだ。

地下2階で9坪ほど、14席しかない小さい店。でも夢に描いたお店を、いざオープン。

オープン当初は友人が連日来てくれて満席の日々、1ヶ月が過ぎたころ落ち着きお客様の来店が1日0人の日々も目立つようになっていった。

「こんなはずじゃない…」家に帰る時間も惜しんで店に寝泊まりをしながら必死に働いた。「値段が高い?」「味の問題?」「広告量が足りない?」あらゆることをやった。それでもお客様は増えず、赤字が何カ月も続いた。「もう資金も回らない、現実は甘くなかったもうだめだ、、」とやけになり始めた。そんな折、友人に誘われて飲みに出かけた。立地がいいわけじゃない、料理も普通、価格も特別安くないがお客様が満席のバーがあった。「なんでマスターの店は満席なの?」と軽い気持ちで質問をした。店主が屈託のない笑顔で「うちにくるお客さんはね、コミュニケーションを取るために来てるんだよ。お客様の欲しいものを提供しているからだよ。美味い飯、美味い酒を飲みたいと思ったら他の店に行ってるだろうね!」と言った。その話を聞いた時、目の前の霧が晴れていき光が見えた気がした。

「お客様の目線、気持ちを完全に見失っていたのだ…」そのことに気が付いて唖然とした.

オペレーションのしやすさ、原価率といった店側の都合で形態や料理を決めていた今の状態では、お客様がつかないのも当然。そう思い直し、もう1度「高田馬場」という街を見渡して、徹底的に周辺の繁盛店に飲みに歩いた。言わずと知れた学生街。どの店でも、学生は楽しそうにはしゃいでいて、たまに羽目を外して店員に怒られているのを目にした。「自分のお店でそんな学生たちが喜んでくれるものは何か…」

私の店は地下で便が悪い、おまけに狭い。それを逆手に取り「地下=どれだけ騒いでも怒られない」「狭い=貸し切り」と方向転換し、「あなたたちの貸し切りの秘密のアジト」という切り口で、飲み・食べ放題プランを提案した。

高田馬場のお店を経営していた当時、オープン1周年記念のときの写真。後ろから2列目の右端の柄シャツを着ているのが筆者。

このプランが大ヒット。学生たちは周囲に気兼ねなく集い・笑える場所を探していたのだ。気づけば毎日日予約が入るお店になっていた。勢いに乗り、都内で3店舗まで展開することとなった。

良い流れは続くもので、その頃、妻とも知り合った。「海外で働いてみたい」という彼女の夢を聞く度に、自分もいつしか海外生活にあこがれを抱くようになった。コンビニで、ふと手に取った雑誌が、その後の自分の人生を決定づけることになるとは、その時はまだ知る由もなかった。

異言語・異文化でのマネジメントに悪戦苦闘

現在の妻と入ったコンビニで、たまたま手に取った求人情報誌に、バンコクで日本食レストランを展開する「富士グループ」の求人募集を発見。店を出てすぐに電話をかけると、偶然にもその日、バンコク在住の社長が東京に戻っているとのこと。その日のうちに面接に伺い、そのまま富士グループがフランチャイズ展開する「Coco壱番屋」の責任者として採用が決定した。
その時、高田馬場で沖縄合料理を始めてから2年半がたっていた。他にも知人と共同経営などで都内に店舗を3つ持っており、どの店も経営状態は良好だったが、海外行きが決まってからは、すぐに事業継承・売却・閉店などの整理に追われた。その頃は気付かなかったが、30代前半で事業の立ち上げから閉店まで関ったという人はそういない。海外ではゼネラリストが求められるため、その後の自分の大きな強みになったと感じている。そして2011年5月、バンコクに向けて旅立った。

実はそれまで、海外を旅したことがあまりなく、赴任地タイは自分にとって3カ国目の外国だった。Coco壱番屋はオペレーションシステムやマニュアルが徹底されており、マネジメント側の人間もオペレーションスキルは必須。そのため赴任初日からキッチンに入り、ご飯もりを担当。その後も、フライヤー、炒め物、ソース番・・・と、使用期間の3ヶ月で基本的なオペレーションができるようになった。言葉に関しても、当初はタイ語が全く分からず苦労したが、毎日現地スタッフに言われたことをメモし、家に帰って参考書片手に寝ずに勉強して、数カ月で業務中に使われる言葉は全て理解できるまでに成長した。

また、外国で働く際にはついて回る「言葉通じない中でのマネジメント」という課題の解決方法もここで習得した。例えば業務マニュアルの作り方1つとっても、言葉ではなくビジュアル化する。言葉が分かり合えない中では、実際に私がOJTでやってみせたこともあった。

そんな仕事にもタイ生活にも慣れてきた頃、1度痛い目を見た。人前であるスタッフを叱ったところ、全員から総スカンをくらってしまったのだ。タイは微笑みの国と言われているが、仕事となるとプライドが高い。その国の風習を理解することの大切さを学ぶと共に、その後はコミュニケーションの取り方を工夫し、回数を増やすなどして信頼を取り戻すよう努めた。

人のマネジメントに関しては、ASEAN全体で言えるかもしれないが、良い意味での「性悪説」が有効のように思う。「悪いことは起こる。起こらせないためにはどうするか」を前提に、リスク管理の手段として制度を整えれば、現地の人が気を悪くすることもない。例えば、オーダー間違いが多く、廃棄ロスに悩む店舗があった。日本人がいくら指導しても直らなかったが、タイ人マネージャーが就任すると1日で改善。彼は「ミスした人が罰金を販売価格で払う」としたのだ。日本なら彼の対応を不満に思う従業員が多いかもしれないが、タイの文化ではそうではないようだ。ミスが起こりづらい環境を整えておくことが、双方にとってプラスになると学んだ好例だった。

また、富士グループではシンガポールでの店舗立ち上げヘルプも経験。ラオスなど、周辺のアジア諸国に行かせてもらう機会も得て、自然とタイだけでなく広くアジアで展開している企業で働きたいと思うようになっていった。

そんな時、現在の雇用主である「ダイニングイノベーション」を見つけ、「日本食を世界に」「All for your smile」といった企業理念に共感を覚えた。海外1号店として、シンガポールに「焼き鳥家すみれ」をオープン準備中だと知り、求人募集は締め切られていたが「働かせて欲しい」と直談判。数週間後に代表の西山とシンガポールで面接する機会を得た。どうしても受かりたかったので、当日は「『焼き鳥家すみれ』 海外展開の提案書」なるものを独自に作成し、持参した。そんな熱意・姿勢が通じて、面接はほんの10秒で終了し、めでたく採用となった。

当初はタイでの出店に備えた採用だったが、インドネシアの物件が先に決まり、2013年9月に急きょジャカルタへ。出店先となるモールに足を運んで、驚いた。人がほとんど歩いていないのだ。こんな場所でどんな飲食店を開くのか。実はこの時、まだ何も決まっていなかった。

「絶対に成功しない」と言われた1号店

インドネシア1号店出店が決まっていたパシフィックプレイスは、連日閑散としていた。日本から仲間が視察に来ても「絶対に成功しない」と言われる始末。しかし、そう言われると逆に燃える自分にとっては好条件だったのかもしれない。

物件は決まっていたが業態は未定だったため、現地の方にとって何が「美味しい」のかを探るべく、ローカルフードを食べ尽くした。着任からオープンまでの数カ月間、最低でも1日3食は屋台などでローカル食を食べ、通算で1,000食以上は食した。インドネシアは広く、地方によっても好みは変わる。同じ「辛い」でも、ジャワの人とスマトラの人と各地方ごとにその辛さの種類が違うというところまで学んだ。

同時に日本食についてもマーケティングを開始。その当時、ジャカルタのレストラン市場は「美味しいけれど高い」と「安いけれど味もそこそこ」が主流で、中間マーケットがすっぽり空いていると気が付いた。「手の届く価格で本当に美味しいものを」との発想と、他社との差別化ポイントを徹底的に社内でディスカッションし、和牛・新鮮野菜食べ放題、スープも選べ1人1ポッド制の「しゃぶ里」と、日本クオリティの焼肉をリーズナブルに楽しめる本格焼肉の「KINTAN」の現在の形が生まれた。

ひとり1ポットのスタイルでしゃぶしゃぶを提供する

それからは今も頼りにしている、総料理長がメニュー開発に注力した。日本の味をそのまま押し付けるのではなく、インドネシア人・日本人が食べてみんなが「美味しい」と感じることができる味を探しあてること心掛けた。例えば、現在も好評の「からあげ」と「トウモロコシのかき揚げ」。開業時「こんな美味しいもの食べたことない!」と言われたが、実は「アヤムゴレン」と「ジャグンゴレン」と同じような料理がローカルにあり受け入れやすい土壌があることに気が付いた。ローカル食を食べ続けた中で、インドネシア料理と日本食との共通点を探り、調味料や調理法で日本の味に近づけながら、いわばローカル食を「昇華」させていった結果生まれた味だ。それをプレゼンテーションの仕方を変えることで、インドネシア人の目には新鮮に映っているようだった。日本食をローカライズするのではなく、現地の食を大切にし、その味を日本風にアレンジするアプローチを重ねた。

また、ターゲットのセグメントにも力を入れた。想定客層は大きくインドネシア人、インドネシア華僑、日本人の3種。どの人種の方が来ても美味しいと感じて頂けるよう、各ターゲットごとに、肉、前菜、サラダ、揚げ物、ご飯ものと細かくセグメントし、どの人種のお客様が来ても美味しく食べてもらえるメニュー構成にした。

KINTANオープン時のスタッフたち。左から3人目が筆者

そのかいあってか、両店ともオープン当初から連日行列が絶えず、KINTANは1日に400人以上の来店で5回転という日もあった。また、しゃぶ里は102席で月商3,000万円以上をたたき出し、初期投資も日本の約1/3の期間で回収できた。

その要因は、良いスタッフに巡り会えたことが大きいと感じている。オープニングのコアスタッフには、インドネシア人でも日系企業での勤務や訪日経験者を優先的に採用した。日本人との仕事の仕方が分かっているので、トレーニングの時間を大幅に削減できたと思う。また私自身も数カ月は休みなしで働き続けた。現地スタッフに、いくら日本の質の高いサービスについて説明したところで、それを受けた経験がなければ分からないのは当然だと考えた。我々が求めるサービスレベルのあるべき姿と想いを背中で見せるよう努めた。そんな私達についてきてくれたインドネシア人スタッフには今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。

そんな一般的には上手くいったと思われている1号店だが、実は大きな痛手も被っている。工期の遅れだ。予定より3カ月近く開業が遅れ、人件費や家賃などのコストがかかる上に、売り上げはないという二重苦を味わった。

なかなか思い通りにいかないインドネシアでの内装施工

日本とは違う、工事責任範囲、設備不足、資材・備品の輸入問題なども経験した。その反省を生かし、2店舗目以降は事前に業者と双方が納得するまでスケジュールについて話し合い、工期を確実にフィックス。工期が伸びた場合は、業者が我々にペナルティを払うという契約書に変えた。また資材をできるだけローカル製品に変更したり、工事の支払い回数をより細かく分け、約束の工程まで終了した段階で都度支払いをしていきリスクを減らしていく仕組みを作るなど改善をしていった。

加えて、工事管理は人任せにせず、自分達で行うことが大切だと学んだ。配線・配管などがデタラメでも最終的にそれらしく見えるように工事されることもある。今では笑い話だが、キッチンができたが出入り口の扉がなく、中に入れないということもあった。工事が始まったら可能な限り現場に足を運び、行けない日はLINEで状況を写真報告してもらうなど、コミュニケーションにも工夫をした。

順風満帆な初出店だったが、2号店進出までには1年の歳月を要した。その理由については、次回に譲りたい。

日本の食文化を通して、世界中の人々の生活をより豊かなものに

現在(2017年11月時点)、インドネシアに直営9店、フランチャイズ18店、計27店舗を展開。

2号店出店までは1年を要している。最初から多店舗展開をすることを前提に、味の標準化や今後店長になりうる人材の育成など、ノウハウを蓄積するのに時間を要したからだ。しかし、そこからは横展開なので早かった。2年目でジャカルタ特別州内に6店舗開業し、3年目にはフランチャイズ化。インドネシアでは信頼できるパートナーを見つけ出店、他にもシンガポール、カンボジア、フィリピン、台湾など海外進出も加速した。

国内で早期展開ができたのは、輸入品に頼らず可能な限りインドネシア国内産に早期に切り替え進めたおかげでもある。インドネシアは輸入品に厳しく、場合によっては輸入許可の取得に半年以上かかる。その上、中身は同じでもパッケージが変わっただけで、再登録が必要となったりする。機材・食材共に、可能な限り国内調達にすることで、時間ロス、在庫切れリスクを最小限に抑えることができた。

新鮮野菜を提供してくれるインドネシア現地の農家のみなさん

初めてのラマダンでは、インドネシア人スタッフが断食中のため味見ができず、味のブレが生じるという初めての経験も。急遽、私やシェフが店舗に入り、常に味のチェックをすることで対応したが、その経験から、現在はセントラルキッチンで数種類のコア・アイテムを調理・管理し味の安定化を図っている。

また、ラマダン中は通常は日中の客数が減り、日没直後の時間に客足が集中するため、ディナーの回転が難しく、一般的に外食業には厳しい時期だ。そんな中で売り上げ最大化を図ることを考え、席効率、予約マネジメント、メニュー戦略により、実は初年度最大の売り上げはラマダン中に記録した。

スタッフの問題で一番苦労したのは、フランチャイズ展開する時だった。優秀なオープニングスタッフに恵まれたが、彼らは「しゃぶ里」「KINTAN」に対し『自分たちが作り上げたブランド』という思い入れと誇りを持っていた。その分、フランチャイズ展開の話が進む中で「我々のブランドを売ってしまうのか?」との不安や不満が大きかったのだ。「お客様にとって店舗数が増えるのは嬉しいこと。それにはスピードも大切。パートナーと組んで展開してゆくことは、お客様のためになる」と根気強く説明したが、開業時から苦楽を共にしたコアスタッフでも離れてしまう人財がいた。ステージが変わる段階では仕方のないことではあるが、今でも非常に残念に思っている。

4年目の今は、ブランド価値を維持するため人材育成と、安定的なQSCを実現するためオペレーションのワンスタンダード化に注力。人事については、店舗数が増えた今、皆をフェアに評価するために、評価システム、トレーニングシステム、パフォーマンスを連携させ、給与に反映している。

オペレーションでは「売り上げ」、「コスト」、「QSC(クオリティ・サービス・クリンリネス)」の3つで、ポイントとなる目標数値を設定し、日次報告を義務化。例えば、売り上げ報告を翌日確認した際に、ディナー客数が異常に少なかったら翌日すぐに要因を確認。デモなどの外的要因ではなく、内的要因だと思われる場合はエリアマネージャー以上が店舗に行き即改善するという一連の流れを徹底。お客様アンケートも日時での目標設定をし、日々改善を続けている。

フランチャイズパートナー先へも同様で、月1回の会議に加えてQSCチェックとクオリティチェックを行っているほか、現場へ入り込んでのトレーニングもやらせてもらっている。もちろん企業文化の違いもあるが、お互いの違いを尊重しつつ、ブランドとしてどうあるべきかについては相互理解を持ち、双方が歩み寄る努力をすることが大切なように感じる。

今後は、バンドンなどの地方都市に出店予定。物理的距離があり目が届きづらくなった時のマネジメントやハラル化がこれからの課題となると考えている。

インドネシア、そしてアジアの飲食業界をより良くしたい、というのが今の私個人の夢。今後は、私自身が体験を通して得た知識や経験を、出版やセミナーなどで伝える場を仲間たちと作っていくことで、お客様やスタッフ、サプライヤー様を含めた飲食業界全体がより良くなることに貢献していきたい。「食を通してすべての人を笑顔」にする為に役立ちたい、そう思っている。

(2017年:週刊Lifenesiaに掲載)

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