※2017年に週刊Lifenesiaに掲載された記事です。
インドネシアで事業に熱狂する人たちの半生
大阪出身。飲食・デザイン会社を経て1999年バリ島へ単独移住。会社を作る所から始め、今年18年目のオリジナルバッグ”sisi”代表。趣味は読書、映画、料理。話すのが好きで日本でもお話会を定期的に開催。
ウブドに魅せられ移住を決意
ウブドに移住して18年。あの頃とは街並みも環境も大きく変わったが、ウブドを愛する気持ちは今も変わらない。初めて、ウブドに来た時は不思議な感覚だった。直感で、ここに住みたいと思った。まさに心の底から魅せられたのだ。しかし、実際ウブドに移住するまでに、そして、移住してからも、いろんなことがあった。楽しいこと、苦しいこと、不安なこと。ただ、ひとつ言えることは、ウブドに来て良かったということ。
私は今、『sisi(シシ)』というオリジナルバッグを中心とした実店舗とオンラインショップ、ベジタリアンカフェ、複合施設を経営している。今でも大変なことは多いが、家族と人に恵まれ、幸せな日々を送っている。ただ、それに甘んじるつもりはない。同じ場所でジッとできない質(たち)だからだ。そんな私の質(たち)が招いたこれまでのストーリをここに記したいと思う。
私は大阪の堺市で生まれた。父はいわゆる証券マン。母は銀行で働いたり、病院の食堂で働いたり、とにかくバイタリティーのあふれる人だった。いま思えば、私は母にそっくりだ。私には二人の姉がいる。その姉たちを見て育ったおかげか、私は幼い頃から要領のいい子どもだった。
小学校3年生の時、堺市内の別の地域に引っ越した。今まで住んでいた地域とは環境が違い、戸惑いもあったが、なぜか胸が高鳴った。自分の居場所をゼロから作り上げる喜びを感じていたのだ。大阪市内で食堂を営みながら暮らしていた母の両親(私の祖父と祖母)も堺に来て、一緒に暮らすことになった。一階は食堂、2、3階は住居だ。引っ越してすぐ、祖父が亡くなり、食堂は祖母と母が切り盛りした。外出の多かった母が家にいる。それがとてもうれしかった。
二度目の引っ越しは奈良へ。当時、高校生だった私は、急激に成績を落とした。自分を賢いと過信して、努力せずにいたのだ。要領だけで乗り越えられるのは中学生までと知った。
その頃、時代はまさにバブル全盛期で、日本企業が次々と海外へと進出していた。そのあおりを受けて、証券マンの父は「時代はインターナショナル」と、私を海外へ行かせたがっていた。その結果、ホームステイとしてカナダへ行くことになった。しかし、散々たる経験だったと記憶する。言葉が通じないのだ。一番驚いたのは「フライドポテト」を注文した時のこと。レジの前で身振り手振り、何度も「フライドポテト」と繰り返したが伝わらない。「フレンチフライ」と発音すべきだったと後で知るのだが、ニュアンスで伝わらないことにカルチャーショックを受けた。まさに、価値観を打ち砕かれたのだ。それが結果として、英語をより話したいという願望に火をつけた。そして、いつか海外で仕事をしたいとも。その後、私は、天理大学の英米学科へと進学した。
私が初めてバリに訪れたのは21歳の時だった。二人の姉が、英語を話せる妹も誘えば旅が楽になると誘ってきたのだ。マリンスポーツに明け暮れる姉たちに同行せず、私は街をぶらぶら歩いた。気候の良さ、物価の安さ、人の温かさ。歩くたびにこの街が好きになった。帰国後、バリへの憧れは冷めず、休みが来ればまたバリへと向かった。
今度は2週間の滞在だった。今までと違う場所に行ってみたくなり、観光ガイドに載っていたウブドという地域に足を運ぶことにした。それが、運命を決めた。ウブド独特の土着的な空気に、完全にハマってしまったのだ。私の居場所はここだ。ここしかない。強くそう思った。
しかし、帰国すると魔法は解けてしまう。当時、付き合っていた料理人の彼氏から結婚の話が出て、高知へ一緒に行くことになった。ウブドに行けないことは残念だが、料理屋の女将になることは、食堂の娘として相応な気がした。しかし、その話は突然、破綻を迎えた。ちょうどこの時に、私自身の仕事の事も重なり、私はどん底へ落ちた。周りから見ると、分かりやすいぐらいの落ち込みようだったと思う。何もできない、何もしたくない。私はこの世に必要とされない、とまで考えた。今であれば、「うつ病」と診断されただろうか。とても苦しい日々だった。
そんな生活の中で、ふと、自分が輝いていた日々を思い出した。憧れてワクワクした、あの日々。そうだ、ウブドだ!その日から未来の選択肢は「ウブド」しかなかった。ウブドに移り住む日を1年後と決め、そのために100万円を貯めると決意。昼は飲食店のウエイター、夜はホステスとして、15~6時間働いた。そして、予定通り100万を貯めて、ウブドへと発った。