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【熱狂諸島】JCB 門脇裕一郎氏|自分の目で見たこと以外は信じるな。現場に足を運ぶことが大切

初めてのインドネシア出張から欧州での駐在

初めての海外出張は1998年、フィリピンだった。同年、インドネシアのジャカルタを訪れる機会を得た。目的は、当時、インドネシアの銀行ランキング、トップとナンバー2であった、BCA(Bank Central Asia)と、BII(Bank Internasional Indonesia)との折衝。BIIとは契約がまとまったばかりで、立ち上げ作業を主担当としておこなった。

インドネシア出張時は、ちょうどアジア通貨危機直後でクーデター中だった。私は、当時のプレジデントホテル(その後、日航ホテル、現在プルマンホテル)に宿泊し、物々しい雰囲気を感じながら、「こんな状態で、ミーティングなんてできるのか?」と思った。窓の外を眺めると、ホテルインドネシアの周囲を戦車が走っていた。

正直、インドネシアはマーケットとしては頑張っているけれど、こんな国で仕事をするのは大変だし、嫌だなと感じた。これが私にとっての人生初めてのジャカルタ訪問であり、印象はすこぶる悪かった。

その頃、私はアジア圏には興味がなく、ヨーロッパに赴任したいと考えていた。華やかでおしゃれなイメージのあるフランスへ行ってみたくて、社内の第二外国語通学制度を使い仏検2級を取得していた。しかし、パリへは同期の人間が配属され、私がフランスに赴任する夢は破れた。人生、なかなか思い通りにいかないものだ。

2001年、イギリス・ロンドンへ駐在することが決まった。思ったより時間がかかったが、念願の海外赴任が決まり、うれしかったかというと、そうでもなかった。やはり、フランスに行ってみたかったという思いが残っていたのだ。

しかし実際に、ロンドンで暮らし始めると、自分に合っているなと感じた。きらびやかさ、華やかさこそないけれど、英語が使えるところが便利だし、街並みに落ち着きがある。人種のるつぼだから、自分が外国人であることを意識しなくていい。例えば、電車に乗っていても、インド系、トルコ系、中華系といろいろな人がいる。私は、そうした雰囲気を好ましく思っていた。

ロンドン駐在時

ロンドンでの最初の夏季休暇中、パリを訪ねた。実践を重視したフランス語の勉強をしていたから、言葉の面では問題なし。学生時代、アメリカへの旅で感じたような言葉が通じないことの不自由さはなかった。

海外で仕事をするようになって、人種や宗教、考え方の違いの多様性に気付かされることが増えた。自分が「正」だと思っていることが、ただの独りよがりの場合もある。意見を言う前に、相手の意見に耳を傾けることが大切だと考えるようになった。

ロンドンでの仕事は、東京でやっていた仕事と同じだった。場所が欧州に変わっただけ。北欧からトルコまで欧州中を20か国以上飛び回った。その中でもスペインは苦戦しており大変そうだった。英語も通じないし、当時、治安も一番悪かった。拠点長も早く帰任したいと愚痴を漏らしていた。

欧州でスペインだけは勤務したくないな、と思った。そんな中、ロンドンでの勤務が2年半経過した頃、突然スペイン勤務の辞令を受けた。ショックだった。愚痴を漏らしていたあの拠点長の後任だ。「何で自分なのか・・・」。入社10年目だったが、営業職は初めてだった。駐在員は自分一人だ。英語が通じず最初は苦労した。

スペイン駐在時

しかし、フランス語のお陰で語学的に共通点のあるスペイン語の習得は早かった。半年ほどで仕事はスペイン語でほぼできるようになった。マドリードでは自分も家族も何度か危険な目に遭い、オフィス立ち退きを突然通告されるなど、苦労の連続であったが、がむしゃらに打ち込んだ仕事は順調だった。加盟店数は倍増し、スペインは欧州で一番JCBカードが使える国に成長し、前からやってみたかった現地の人向けのJCBカード発行の大型プロジェクトも相手の合意を取り付けた。

しかし、そのプロジェクトはまさかの最終段階で本社にて却下された。2007年春、失意を抱えたまま日本に帰任した。帰国後は、希望していた国際本部に戻ることは叶わず、業界活動や新テクノロジーのICカード部門を担当。もう自分に海外勤務はないだろう、と思って4年が過ぎたころ、唐突に、インドネシア行きを言い渡された。

「何か悪いことをしてしまったのだろうか」

ジャカルタへの赴任が決まり、最初に出てきた言葉はこれだった。

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