【熱狂諸島】幸子・ムリアディ氏 / ブロックMで41年間 スナック『JIKEI』を経営

住めば都。大好きなインドネシアに骨を埋めるつもり。

インドネシア在住47年の幸子ママ。ブロックMで41年間『スナックJIKEI(慈恵)』を経営されていて、現在75歳。1972年からジャカルタで暮らすママが、どのような人生を歩んで来られたのか?
40年前と今とでジャカルタはどのように変わったのか訊いてみました。

来た当初は耐えられなくて二度ほど帰国したことがあります。だけど、住めば都。今ではインドネシアの生活をすっかり楽しんでいます。

プロフィール
Sachiko Muliadi さん
(幸子・ムリアディ/旧姓 熊谷)75歳

1972年に日本で結婚したインドネシア人のご主人とお子さんと初来イ。その後ブロックMにスナック『JIKEI』を開店。今も現役ママとして活躍中。お店のイチ押しは、ジャカルタの名物!? ママがレシピを生み出した絶品『カレーうどん』
ライフネシア編集部
今回はライフネシア300号記念にちなんで、30年以上インドネシアで暮らされてる方々からお話を聞いています。ジャカルタ在住歴の長い幸子ママにも是非お話をお伺いしたくて来ました。よろしくお願い致します。
幸子ママ
確かに30年間以上ジャカルタに住んでいますが、面白いこと話せるかしら? なにせ私は世間知らずなもんで……(笑)
ライフネシア編集部
いえいえ、長い間ジャカルタのブロックMを見てこられた幸子ママですから記憶を辿って頂ければと思います。まずはじめにママはいつインドネシアに来られたのですか?
幸子ママ
1972年です。もう47年経ちます。あっという間でした。自分の年齢も忘れちゃいますね(笑)
ライフネシア編集部
インドネシアに来られたきっかけは何ですか?
幸子ママ
主人が『賠償留学生』で日本に留学に来ていた時に知り合い、そのまま日本で結婚しました。その際に私もインドネシア国籍に変えたのですが、そのため子どもが外国籍のため日本の小学校に入れませんでした。当時はインターナショナルスクールなんてありませんから。そこで子どもの教育のためにインドネシアに移住することにしました。
賠償留学生
終戦後、日本の外務省が戦争賠償として受け入れた留学生のことをいう。インドネシアからは、1960年から1964年にかけて1,000人以上の学生と研修生が日本に派遣された。留学生は最初の1年間『国際学友会日本語学校』で日本語を身につけ、その後日本全国の大学で、それぞれ工業技術や商業、医学、芸術を学んだ。また留学生たちは、インドネシア建国の父である初代スカルノ大統領から独立まもないインドネシアを広く紹介し、日本人と友情を築き、親善大使としての役割も果たすよう激励されていた。
ライフネシア編集部
当時の賠償留学生ってどういうタイプのインドネシア人だったのですか?
幸子ママ
優秀な人が多かったんじゃないかしら……。独立後まもない国の将来を担う人材育成のための日本留学ですからね。主人もそうですが、留学生はみんな日本語も流暢でした。
ライフネシア編集部
政府としても選りすぐりの優秀な学生を選ぶでしょうね。
幸子ママ
主人はインドネシア大学の学生でした。賠償留学生で日本に派遣される学生は、難しい試験を突破した人だけでしょう。全員優秀なインドネシア人だったと思います。
ライフネシア編集部
当時は1期から4期に分けて約100人ずつ留学生が派遣されたと聞いてます。日本でご主人と出会われたということですが、お二人の馴れ初めを教えてください。
幸子ママ
主人は戦後の賠償留学の3期生として日本に来ていました。私も大学生でサークル活動では友だち3人とダンスを習っていました。当時は学園祭でダンスが流行っていて、筑波大学の学園祭に3名のインドネシア人男性がやって来てその中の1人が主人です。そこで主人にベッタリとくっつかれて、他の男性と全然お話ができないくらい……(笑)それをきっかけに猛アプローチを受けて、やがてお付き合いを始めて、最終的には結婚に至りました。

一歩入ると日本のスナックを彷彿させる店内が現れる

ライフネシア編集部
結婚後、家族で日本を離れるのですが、1972年当時は飛行機の直行便はないですよね?
幸子ママ
なかったですね。パンアメリカン航空でした、香港やバンコクを経由しながら13時間くらいかかりました。13時間は長いのですが、私より前に来た人たちは飛行機ではなく船だったそうで、数週間かかったみたい。それを思えば私は楽でしたね。
ライフネシア編集部
では初めてインドネシアに来た時のことを覚えていますか?
幸子ママ
インドネシアの知識がない状態で来てしまいました。当時は国際空港もスカルノハッタ空港ではなくハリム空港です。空港のそばに川があったのですが、建物を出た瞬間に目に飛び込んで来たのは、その川で薄暗い中、用を足している人でした。近くで洗濯をしている人もいます。その光景が衝撃的で今でも忘れられません。着くや早々帰国したくなりました。そして案の定、なかなか環境にも馴染めず、わずか数ヶ月の滞在で日本に帰っちゃいました(笑)
ライフネシア編集部
47年前は、今とは比較できないほど不衛生だったんでしょう。ところでご主人は簡単に帰国を許してくれたのですか?
幸子ママ
一時的なつもりでしたが、しばらくすると主人に「戻って来てくれ」と懇願されて結局ジャカルタに戻りました。ジャカルタでは主人の姉が下宿をやってたので、そこに住んでたのですが、シャワーのお湯は出ない。トイレは水洗じゃない。不慣れなことばかりです。おまけにインドネシア語も全く喋れなかったので、親戚とすらコミュニケーションが取れず、日本語ができる主人としか話せません。どんどんストレスが溜まっていきました。そして、再び日本に半年間帰っちゃいました(笑)
ライフネシア編集部
また帰っちゃったんですね(笑)しかも2度目は半年間、結構長い。2度目の戻って来るきっかけは何でしたか?
幸子ママ
主人に新しく家を建ててとお願いしました。新築が戻る条件(笑)給湯シャワーにして、立派な台所も作る。そして家が完成したところで戻りました(笑)
ライフネシア編集部
3度目はなかったのですか?
幸子ママ
はい、逃げたのは2回(笑)今ではこちらの方が住みやすくって、それ以降は日本に帰ろうなんて一切思いません。私は日本の寒さが苦手なのよ(笑)
ライフネシア編集部
環境に慣れてインドネシア生活が快適になったんですね。ではインドネシア料理もお好きですか?
幸子ママ
一切食べません(笑)こっちの料理は脂っこくて……。こればかりは慣れない。47年経った今でもほぼ日本食です。

さっぱりとしたお通しとビール

ライフネシア編集部
当時と今と比較して、ジャカルタの町並みはどう違いますか?
幸子ママ
昔は車が少なかったです。ベチャという自転車が主流でバジャイもありませんでした。バスはありましたが、治安面で怖かったのと、主人にも乗るなと言われていました。実は47年間住んで一度も乗ったことがありません(笑)
ライフネシア編集部
当時、治安は悪かったのですか?
幸子ママ
ある意味、今の方が悪いんじゃないかしら。昔はスリのようなコソ泥タイプいたけど、テロや人殺しみたいな大胆な犯罪はなかったです。でも1974年の『田中暴動』は怖かった。当時、スディルマンにあったトヨタが燃やされたりして、多くの日本人はシンガポールに逃げました。ジャカルタに残った日本人はヌサンタラビルの日本大使館に避難したり、それはすごい騒ぎでした。
田中暴動
1974年に田中角栄がインドネシアを公式訪問した際に起こった『反日・反政府暴動』のこと。
ライフネシア編集部
1998年の暴動は記憶に新しいから、ご存知の日本人も多いと思われます。さすがに1974年の暴動を経験されている方は少ないでしょう。貴重な体験談です。
幸子ママ
ニュースを知って怖いと思いましたが、私自身は家から出ずに隠れていたので実際に体感したわけではありません。1998年の暴動は一度経験していたので、幸いにもあまり恐怖を感じませんでした。
ライフネシア編集部
日本人は暴動と聞いても実感がわかないのですが、きっと命の危険を感じられた方もいらしゃったのでしょうね。
幸子ママ
そういえば、昔は汚れないようにと自家用車に白いカバーをかける習慣がありましたが、その白いカバーをかけていると標的にされたりするので、いつからか全然見かけなくなりました。
ライフネシア編集部
ところで、当時ジャカルタに日本人の友だちはいらしたんですか?
幸子ママ
私と同じように賠償留学生と結婚した日本人女性が結構いました。みんなでよく集まっては日本食を作ったりしました。それが現在の『ひまわり会』になって、今でも年に一回は集まっています。

お店の奥にはグループで利用できるソファ席もある

ライフネシア編集部
そういえば、お店自体の開店はいつですか?
幸子ママ
1979年12月31日です。最初は今の『パパイヤ』さんの2階にお店があって、今の場所に移転したのは2003年。最初のお店は50席くらいあって、女の子もたくさんいて賑やかでした。開店が大晦日だった理由は、運勢で79年にオープンさせた方が運がいいとのことから大晦日に急いでオープンさせたんです。
ライフネシア編集部
勝手のわからない異国で店を経営するというのは、並々ならぬご苦労もあったと思うのですが、最初からお店の経営は上手くいったのですか?
幸子ママ
最初は日本人が住んでる下宿にビラを配り歩きました。他にこれといった宣伝方法は見つかりません。だけどおかげさまで、開店からお店は大盛況。お正月だったのですが、当時工場で働く人たちが三交代だったせいもあって、途絶えることなく入れ替わりでお客さんが来てくれました。
ライフネシア編集部
開店当初、ブロックMに日本食レストランはあったんですか?
幸子ママ
いいえ、ブロックMはもとは住宅街で日本人が数多く住んでいました。スナックを出したのはうちが初めて。その3ヶ月後くらいから日本食が少しずつ増えていき、いつの間にか今のような日本人街になりました。
ライフネシア編集部
そもそもなぜスナックを開こうとしたのですか? ママがお酒好きだったとか?
幸子ママ
私はお酒は飲めないの。でも、じっとしていることが好きじゃなかったし、日本の実家も飲食業をしていたので始めるのに抵抗はなかったです。当時日本っぽいスナックもなかったので需要を見込んで始めました。ホステスの女の子も昔は20人くらいいました。
ライフネシア編集部
フロアに20人もいると華やかで、お客さんも楽しかったことでしょう。
幸子ママ
ウチの店はお客さんと一緒に歌えるように、女の子に平仮名を覚えさせるんです。だからお客さんも楽しかったんじゃないかしら。おまけにウチの子たちは結構歌がうまいのよ。昔、ブロックMカラオケ大会があった時には、毎回ウチの子が優勝したりしたのよ。
ライフネシア編集部
今も幸子ママは毎日お店に出勤されているのですか?
幸子ママ
特別な予定がない限り、日曜祝日の定休日以外は毎日出ています。女の子たちの入れ替わりも激しいし、やっぱり不安だから休めませんね。
ライフネシア編集部
そういえば、デヴィ夫人がお店に来られた際の写真がたくさんあるんですが、彼女とはどうやって出会われたのですか?
幸子ママ
昔は企業の社長が替わる際にパーティーがあって、そんな時にデヴィさんが毎回来ていたの。何度か顔を合わせるうちに知り合いになり、やがて彼女がプライベートでもお店に来てくれるようになったの。だけど最近は日本でテレビの仕事が忙しいのでしょう。昨年は結局お店に来てくれませんでした。またお会いできるのを楽しみにしているのですが……。

お店の壁にはこれまでのお客さんたちとの写真が貼られていて、お店の歴史を垣間見ることができる。ここには80年代のデヴィ夫人の写真も。

ライフネシア編集部
お二人でお食事に行かれるくらいのお付き合いなんですか?
幸子ママ
さすがに二人きりで食事に行くことはないです。ただ、パーティーには毎回誘ってくれてました。デヴィさんはドレスコードに厳しくて、毎回着用する服のテーマが決められていました。ある時、男女全員白スーツか白ドレスという指定があったんです。たまたま私は持っていたから良かったけど、なければ買わないといけないから大変ですよ(笑)ちなみに白ドレスのパーティーでデヴィ夫人が着ていたのは真っ赤なドレス。さすがって感じでしたね(笑)
ライフネシア編集部
デヴィ夫人らしい華やかなエピソードですね。では最後の質問ですが、今後、日本に帰りたいと思っていますか?
幸子ママ
一切考えていません。両親も他界しましたし、孫もこっちにいます。もう帰る理由がないです。最初は好きではなかったインドネシアも住めば都ですよ。きっと大好きなインドネシアに骨を埋めることになるのかしらね……(笑)
ライフネシア編集部
貴重なお話ありがとうございました。
幸子ママ
少しはお役に立てたかしら……さあ飲んで行って下さい。ウチの『カレーうどん』はインドネシアで1番美味しいってよく言われるのよ(笑)

Jikei Japanese Snack & Bar

Jl. Melawai 8 No.10, Jakarta Selatan(ブロックMのパパイヤスーパー隣)
19:00~24:00(日曜定休)