【熱狂諸島】松永祥兵氏/インドネシアで活躍するプロサッカー選手

※2018年に週刊Lifenesiaに掲載された記事です。

インドネシアで事業に熱狂する人たちの半生

プロフィール
松永 祥兵(まつなが しょうへい 1989年1月7日)
静岡県三島市出身のプロサッカー選手。2008年にドイツにてシャルケ04とプロ契約、2010年Jリーグ愛媛FCに所属、2011年にインドネシアへ渡り未払い問題やリーグ停止を乗り越え現在8年目。サッカーを通してインドネシアと日本の架け橋となる為に奮闘中。

家族の支えのおかげで、プロの世界に

これまでの人生を振り返ると、まさにサッカーに明け暮れた日々だった。プロになりはや10年。今後も活躍を通し、応援してくれる多くの人たちに恩返しをしたいと思う。その一心だ。一番恩返ししたい相手は誰か。そう聞かれると、真っ先に浮かぶのが両親の顔。両親の支えがなければ今の僕はない。僕自身、子供を持つ親となった今だからこそ、よりその思いは増すばかり。両親をはじめ、多くの方に感謝を伝える一端になればと、ここに我がサッカー人生を記したいと思う。

1989年1月7日、僕は静岡県三島市で松永家の長男として生まれた。サッカーにまったく関わりのない我が家において、サッカーに興味を持ったきっかけは、小学1年生の時にテレビで見たJリーグの試合。ひときわ輝く一人の選手に目がくぎ付けになった。三浦和良選手だ。心の底から「格好いい」と思った。将来は三浦選手のような人になりたい。早速、近所のサッカー少年団への入団を決めた。それから明けても暮れてもサッカーの練習ばかり。うまくなるにつれ、チームで重要なポジションを任されるようになり、それがより励みにつながった。小学校6年生の時、静岡県の東部選抜に選ばれ、世界各国の選抜チームと試合をした。この経験により、「いつかは世界へ」という意識が芽生えたのだと思う。その頃、アパレル関係の仕事をしていた父がフットサル場を経営し始めた。僕の夢はいつしか、両親の夢にもなっていたのだ。

加藤学園暁秀高校でストライカーとして活躍していた当時の筆者

中学校への進学は、勉強をおろそかにしたくないと、サッカーと勉強を両立できる中高一貫の暁秀中学校に受験し合格した。もちろんサッカー部に入ったのだが、体が小さかった僕は思うような結果を出せずにいた。高校に入り、体が大きくなるにつれ結果が伴い、1年生の時からレギュラーに加わった。どのポジションでもゴールを決めることができる。それが買われた理由だ。3年生の時には、キャプテンを任されるまでに至った。キャプテンとしての役目を果たすためにも、誰にも負けないくらい練習した。しかし、チームとしての最高成績は県選手権ベスト8止まり。全国大会に行けなかった僕にプロから声がかかる訳もなく、悔しさを抱きながら大学へ進学を決めた。同じ県内からプロに行く同年代の選手たちを見て、「自分は決して負けてない」と強く心に思っていた。

サッカー推薦で入った国士館大学ではプロ入りを諦めている先輩たちと一緒にプレイする気になれず、1年で休学した。その時、ドイツ・ブンデスリーガ2部のアレマニア・アーヘンの練習に参加できるという話を聞いた僕は、藁をもすがるつもりでドイツへと飛んだ。実はこれは母から提案だった。海外に行けばいち日本人として、経歴も関係なく、自分のプレイを見てもらえる。必死にくらいついた。その結果、アレマニア・アーヘンからオファーをいただくことに。しかし、条件が合わず、あえなく帰国。その後、アーヘンでの活躍を見てくれていたドイツ・ブンデスリーガ1部の強豪、シャルケ04のスカウトからオファーを受け、同Bチームの練習で十分な結果を残し、2年契約を結ぶに至った。プロとして初めての契約がシャルケだなんて、嬉しい限りだった。

シャルケ04時代、練習に打ち込む筆者

シャルケでプレイする中、心のどこかに煮え切らない思いがあった。いつかJリーグでプレイしたい。その思いがあふれたのは、2012年のロンドンオリンピックのサッカー代表選手候補に自分の名前が挙がらなかったからだ。日本で活躍すれば、代表候補に入れる可能性がある。日本でサッカーがしたいという衝動が抑えきれず、契約が半年残っているシャルケを辞め、テストを受けるために日本に帰国した。その結果、愛媛FCとの契約に至り、Jリーガーとしてのキャリアをスタートすることになった。

愛媛FC時代の筆者

しかし、日本のサッカーは、感覚を重視する海外のサッカーとは違い、とても緻密で必要以上のスキルを必要とする。海外でのプレイに慣れてしまった僕には馴染むことができず、一年で契約終了。もちろん国内の移籍は厳しい状況だった。その時、トライアウトを見ていたインドネシアのチーム、プルシブ・バンドンの代理人から、3日後にあるチームの練習に参加して欲しいとオファーをいただいた。突然のことで驚いたが、これもタイミングかと即断し、インドネシアに渡ることにした。2011年4月のことである。